自分にとっての当たり前は、他の人にとっての当たり前ではない。
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この記事の目次

はじめに

はじめからそこにあったものと、あとからできたものでは、
そのものの捉え方が違います。

 

はじめからそこにあったのであれば、それは必要不可欠なものとなりますが、
今までなかった新しいものが出てくれば、なかった時と比較し、
必要性をきめていくことができます。

 

なかった時代のことを知らない

はじめから(子供の頃から)自分の周りにあったものは、
あって当たり前のもので、それ自体に特別感はもちにくいです。

例えば、スマートフォン。

私の子供は5歳と2歳なので、生まれた時から日常の中にスマートフォンがあって、
教えたわけでもないのに2歳の子供でも、ある程度の使い方はわかっています。

 

私にとってスマートフォンは、情報を収集して蓄積していくためのツールで、
生活の中で、必要不可欠なものになっています。

ただ、スマートフォンがなくなったとしても、
情報収集はネットからだけでなく、
紙の本であったり、紙の新聞であったり、他の媒体からも拾うことはできますし、
もし電話を掛けないといけないとなっても、
公衆電話を探して電話することもできます。

 

それはスマートフォンがなかった時代のことを知っているから、
それなりに対応できるわけで、
スマートフォンがない時代のことを知らない子供たちは、対応が難しいと思います。

 

そう考えると、子供には便利なものを使うことだけを教えるのではなくて、
私自身が不便だと思うものも教えて、
また違った視点を増やしていく必要があります。

 

京都タワー

京都には、京都駅の近くに京都タワーがあります。

私は、この京都タワーは京都のシンボルとして大切なものだと思っているんですが、
その京都タワーが建つ前の時代のことを知っている人の中には、
京都タワーは必要ないという人もいます。

 

私は、京都タワーがない京都を知らないので、
京都タワーがある京都を当たり前に受け入れていましたが、
京都タワーがなかった時代のことを知っている人からしたら、
違和感を感じることもあるんだなと、その時に初めて気づきました。

 

自分にとっての当たり前は、他の人にとっての当たり前ではなくて、
人は自分の知っていることからしか、ものごとを判断できませんので、
他の人の視点を知るということが必要ではないかと思います。

 

おわりに

自分では偏った考えを持っていると思っていなくても、
ものごとを知らないことで、偏った判断をしてしまうことがあります。

 

全てのことにおいて、他の人の視点に立つことは難しいと思いますが、
自分の考え方や、ものの見方には常に疑問をもって、
他の人の意見を聞ける余裕を持ちたいと考えています。
(私は、いつも余裕がないので、まだまだ修業が必要です。)

 

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